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映画「英国王のスピーチ」について

スピーチ


第83回アカデミー賞作品賞を受賞した「英国王のスピーチ」(The King's Speech)という映画をご覧になった方は多いかと思います。この作品は、今のエリザベス女王の父にあたるジョージ6世が吃音で大変苦労しながらも、困難を乗り越え国民に語りかけていった事実を取り扱っています。

私自身が吃音だったことで、国王として公の場でスピーチをしなければならないジョージ6世の重圧と苦悩が身につまされ、たいへん味わい深い作品です。

それぞれの登場人物についての考察を、私なりに記してみたいと思います。

ジョージ6世の吃音の背景

ジョージ6世が何故吃音になったか、その原因は何かという疑問は、彼個人への問いかけにとどまらず、一般的な問いにつながります。 その原因は解明できませんが、引き金になった要因は考えられます。

彼は幼い頃より両親の手から離れて、乳母に育てられたこと。彼のことを良く思わない乳母につねられたり、食事を抜かされたこともあったこと。また、厳格な父親(ジョージ5世)から、もともと左利きだったのに、無理矢理右利きを強いられたこと。また、X脚(外反膝)で脚の形を苦痛を伴うギプスで矯正されたこと。たびたび兄(エドワード8世)に自分の話し方をからかわれたこと。
王室という息抜きし難い環境の中で、彼はいつも見えざるストレスに囲まれていたことでしょう。このような心理的、肉体的圧迫、不安が不自然な話し方に影響したということは十分考えられます。

受講生で、幼児期に親から虐待を受けられた女性がおられましたが、本人自ら、自分の不幸な幼児体験が重い吃音の引き金になったと話しておられました。 両親の不和、度重なる引越しなどの環境の変化など、身の回りの不安要素が吃音を誘発することが考えられます。

しかし、これらのマイナスの要因が、必ずしも吃音の誘発につながることではありません。
私の場合、幼児期に不安を強いられる出来事があったことは全く記憶していませんし、特に厳格な家庭であったという訳でもありません。 幼児期にありがちの連発がそのまま小学生高学年まで残ってしまったという感じです。何故そうなってしまったか・・・残念ながら私自身、答えられません。

吃音の子供を持つ親御さんが、自分のせいで吃音になったとご自分を責めることがありますが、それは間違いです。吃音になりやすい要因がお子さんの周囲にあったのかもしれませんが、どうしてアレルギーになってしまったのかと原因探しをするようなもので、あまり意味がないと思います。

映画で、ライオネルは吃音の遺伝については否定し、生まれつき吃音の子はいない、後天的なものと断言しています。
私の親戚を調べますに、従兄弟を始め、祖父母の代まで遡っても吃音者は見あたりません。ポツンと私だけです。 祖父はキリスト者としてキリスト教の集まりでよく説教をしていたとのこと。伯父も同じです。話すことに恵まれた家系ともいえます。

一方受講生で祖父、父、そしてご本人が吃音という方がおられました。この場合、何か話し方の共通した癖があるのではないかと思います。 親が吃音の場合、不自然な話し方を子供が感覚的に覚えて身につけてしまうことは十分考えられます。

スピーチ矯正家ライオネルという人物像


スピーチをする男性


ジョージ6世の吃音改善に個人的に携わり、彼のスピーチの際はいつも同行し、1926年から25年間の長きにわたりスピーチを助けたというライオネルは、どういう人物だったのでしょうか。

つい最近、彼の孫がライオネルの日記をもっていることが判り、また、ジョージ6世との手紙も多く残されていたのである程度、詳細にいたるまでのことが判っています。

彼は、第一次大戦中、オーストラリアで言語聴覚士として、戦場で毒ガスで声帯を痛めた兵士の発声回復治療や、戦場でショックを受けて話せなくなった兵士の心のケアーなど、精神的なサポートとともに独自の治療方法を経験を通して身につけていきました。 演劇にも関心があり、彼自ら舞台に立って演じることもありました。舞台役者としての体の動きを伴う自然な発語感覚は、ジョージ6世の指導に良い影響を出していたことと思います。また、学校でも話し方を教えていました。

その後、家族とともに英国に移住し、ロンドンで“L(ライオネル).ローグ言語障害専門”という看板を出していました。 興味深いことは、彼自身は吃音経験者では無かったことです。私自身の吃音経験から、吃音経験のない人が指導をすることは難しいと思っておりましたが、国王との信頼関係を築き、心理療法をしっかり深めていくことで精神面をサポートし、スピーチ改善を進めていった事実は注目に値します。

ライオネルのレッスン内容

ライオネルが行なったレッスン内容とは、彼の日記からジョージ6世とのレッスンの様子がある程度推測できるようです。脚本もこの日記を反映させて脚色されました。
映画ではライオネルはこんなことを指導しています。

上記の具体的な練習とは別に、ライオネルが一番重要視したことは、心理的サポートでした。この信頼関係があったからこそ、25年にもわたる親交が続いたのだと思います。
ジョージ6世がライオネルに宛てた手紙には、「あなたのおかげで自信がもてた・・・」と書かれているとのことです。

ライオネル自身は吃音経験がなかった


ライオネルの資質


吃音経験のない者が、その心理、発語感覚を果たしてどこまで理解出来るのかという疑問があります。私自身、重い吃音でしたので(中学、高校の朗読では文章の一行はおろか、一語たりとも読めない完全ブロックの状態が続きました)、吃音の世界は単に滑舌(かつぜつ)が悪いというのとは異なり、経験した人でなければ決して理解出来ない感覚、心理があり、未経験者がどんなに学術的に研究したとしても、結局、遠巻きに眺めるだけで、その世界には踏み込めないのではと今も思っています。

実際、ライオネル自身が吃音経験者であったら、ジョージ6世のライオネルに対する不信感を持った期間はもっと短かったことだろうと思います。映画ではライオネルがジョージ6世とのつながりを時間をかけて徐々に獲得していく様子が人間味溢れて描かれています。

ライオネルはジョージ6世との信頼関係、心の支えを重要視していました。名もないオーストラリア人(彼には言語聴覚士としての公認の資格はなかった)とイギリス国王という、もともと地位的に全く接点のない関係。その中で地位の隔たりを乗り越えて人間としての信頼関係を築くことができたということは、ライオネルからにじみ出て来る何かがあったのでしょう。

私は全国の方々と電話でスピーチレッスンをさせていただいていますが、かつて重度の吃音だった私がどのようにして改善したのか、どのような経験を踏んできたのか、こんな場合どうしたか、大勢の会衆の前でのスピーチや司会はどのように話しているのか・・・など、私の実経験を尋ねる方が多いです。受講生がそれぞれ今の自分に照らし合わせることにより、改善の具体的なヒントを得て、励みとしておられるようです。

ジョージ6世がヘッドホンで大音響のオーケストラを聞きながら朗読したら、詰まらずに読めたという理由

ライオネルがジョージ6世と初めて対面したとき、彼に本を渡して朗読を促します。けれど、ことばが詰まってしまい朗読を断念します。すると、ライオネルはヘッドホンを彼に渡し、オーケストラの音楽のボリュームを大きくして、その状態で再度朗読を勧めます。その朗読をレコード盤に録音し(当時としては最新技術のレコード録音機があった)、彼に渡します。
自宅に戻ったジョージ6世が蓄音機でそのレコード盤を回すと、スムーズな自分の朗読が聞こえ、驚くというシーンがあります。

何でうまく朗読出来たのか?・・・これには理由があります。

発語と聴覚とには密接な関係があることはご存知のことと思います。
聾唖(ろうあ)の方の場合を考えてみましょう。聾唖の方は耳が聞こえませんから、自分の発語(言い方)を確認することができません。自分がどのように話しているかがわからないまま、一方的に声を出しますので、必然的に不明瞭な話し方となってしまいます。

吃音意識とは自分の話し方をチェックする意識ですので、自分がどのように話しているのかを耳から確認しないで一方的に話していく限りは、詰まる意識が入る余地がないことになります。当然ながら、聾唖者に吃音意識をもった方はいらっしゃいません。

一方、健常者は誰でも自分の話し方を耳、聴覚で確認します。ですからイントネーション、アクセント、語調、声の高低など、自分で思うとおりの言い方ができます。人の話し方の真似もある程度は誰でも出来るものです。自分の耳で自分の発語を確認できるからです。

吃音者の聴覚は働いていますので、自分の話し方をチェック機能が働きかけて、発語を止めるようにもっていかれます。
ジョージ6世が、ヘッドセットからの音楽で自分の声がかき消され、自分がどのように読んでいるかの確認ができないまま文章を読んだ状態は、声は出しているものの、実質的には心の中で黙読しているのと同じ状態です。黙読で吃音意識が浮上することはないでしょう。

この映画でヒントを得て、学校の先生に許可を得て、国語の朗読の時にヘッドフォンで音楽を流しながら朗読をした中学生の受講生がいました。

心の傷(トラウマ)について

映画の冒頭は、アルバート王子(後のジョージ6世)が大英帝国博覧会、閉会式でスピーチをするシーンから始まります。

父、ジョージ5世から博覧会の閉会の挨拶をするように頼まれ、引くに引けずその場に臨んだものの、案の定、吃音でスピーチが完全ストップ。会場はシーンと白けてしまいます。 彼の胸中、心の傷はいかばかりか察して余りあります。

このような大舞台で大失態を演じたことがなくても、吃音をお持ちの方は、大なり小なり苦々しい経験の記憶を、苦手意識とともに心に残していることと思います。

私も特に小学、中学、高校での経験は、私の記憶の引き出しのファイルにぎっしり納まっています。 学校の授業では教科書を一行も読めたことがありませんでしたので、ただただ悔しさの連続でした。もう遠い過去前のことにもかかわらず、先生にどんなことを言われたとか、周りの生徒の反応がどうだったとか、その場の様子と感情が昨日のように鮮明です。上手く話せたら学校生活はもっと明るく、自由な気持ちになっていたのではと思います。

人は過去にできなかったこと、取り残してきたことを埋め合わせたいという気持ちがあります。それをカウンセリングでは“未完(未完成)の行為”といいます。今でも、できれば学校の授業の場に戻り、今の感覚で朗読をしてみたい、ちゃんと読んで「はい、次」と言う教師の声を聞きつつ椅子に座りたいと思う気持ちが今の自分にあるのが不思議です。

人は誰でもこの“未完の行為”というものがあるものです。演歌歌手の小林幸子さんがまだデビュー前の時、ある時、人々の前で歌ったことがありました。一生懸命歌ったのですが「へたくそ、ひっこめ」とヤジが飛んできました。その時の悔しさが今も残り、できたら過去のあの場に戻って、あの人達の前で歌い直したいとインタビューで語っておられました。この気持ちも“未完の行為”です。

あの場面で思うことが言えなかった、悪く言われことが悔しい・・・と思うことがあるかもしれません。
けれども、話すことの良い経験を積んでいくと、苦々しい記憶が上書きされて、過去にさほど囚(とら)われなくなっていくことも事実です。これが癒しのステップといえます。